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裁判員制度と死刑制度

2011年01月18日 15:31

昨年末は、裁判員裁判で死刑が求刑された事案が続いた。それを振り返ってみたい。

1審が終わった5件のうち、死刑回避の無期懲役が1件、求刑通り死刑が言い渡されたのは3件。そして12月10日には、鹿児島地裁で死刑求刑の被告についに無罪判決が下った。

いずれも、以前の裁判官制度であれば全て死刑判決がまず間違いなく出ていたであろう事案である。

2週間ほど前にも、「裁判員制度では、裁判員が被害者の感情に寄り添いすぎて死刑判決が増えるだろう」と述べる弁護士講師がいたので、「事実はそうなっていないし、それは、市民をバカにしすぎている。裁判員制度になれば99.9%の有罪率は維持できるはずがなく、必ず下がる。裁判員制度になったからといってえん罪はなくならないが、減るのは確実だ」と厳しく批判意見を述べたが、今回の無罪判決でもそれが証明されたと思う。

この間の死刑求刑判決を見てみると、

まず最初は、11月1日東京地裁判決。
裁判員裁判で初めて死刑を求刑された林被告に対し、「落ち度のない2人を惨殺した責任は重大だが、動機は極刑にするほど悪質ではなく、被告なりに反省している」として無期懲役とした。

2例目は、11月16日の横浜地裁判決。
男性2人を殺害したなどとして強盗殺人など9罪に問われた池田容之被告に対して、裁判員裁判では初の死刑判決を言い渡した。裁判長は「あまりにも行為の残虐性が非人間的で、最大限酌むべき事情を考慮しても極刑は免れない」と述べたが、主文言い渡し後に控訴を勧めた。ある裁判員は、判決後に「何度も涙を流した。被告には控訴して欲しい」とその苦悩を述べている。

3例目は、11月25日の仙台地裁の判決。
裁判員裁判初の少年への死刑求刑だった。
元交際相手の姉や友人ら3人を殺傷したとして、殺人罪などに問われた少年(19)に対し、「犯行態様や結果の重大性から考えれば、更正可能性は著しく低い」として、求刑通り死刑を言い渡した。この裁判員の一人は「判決が正しかったかどうか、一生悩み続けると思う」と苦しい心境を語っている。

4例目は、12月7日、宮崎地裁判決。
同居する義母と妻、長男の3人を殺害したとして、殺人などの罪に問われた奥本章寛被告に対し、求刑通り死刑を言い渡した。

5例目は、12月10日、鹿児島地裁判決。
鹿児島市の高齢夫婦殺害事件で、強盗殺人と住居侵入の罪に問われ死刑を求刑された白浜被告に対し、「被告と事件を結び付ける直接的な客観的証拠はなく、犯人とは認められない」として無罪を言い渡した。裁判員裁判で死刑求刑の被告への初めての無罪判決となった。

この裁判に関わった裁判員の皆さんには、まず心からご苦労様でしたと言いたい。
いずれの裁判でも大変なご負担であっただろうことは想像に難くない。

その心労は、例えば以下の東京地裁の無期懲役判決の記事からだけでも伺い知ることができる。


「正直、しんどかった」「やればやるほど責任感みたいなものを感じた」
。判決後、会見に出席した裁判員4人と補充裁判員2人は審理を終えた感想を問われ、一様に疲れたような表情で語った。
検察側が裁判員裁判で初めて死刑を求刑した25日。女性裁判員は「あり得ると想定していたが、やっぱり動揺した」と打ち明けた。男性裁判員も「求刑自体は驚かなかったが、その後の評議は重くなっていった」と語る。
評議は1日午前まで5日間続いた。30代の別の女性裁判員は「裁判員をやることで死刑の重さを感じ『そんなに簡単に死刑にできるのだろうか』という気持ちになった」。補充裁判員を務めた男性は「いろんな話をして、死刑の選択もあり得ると気付いたし、(一方で)生きる中で何かを見つけ出すのが人間じゃないかとも思った」と揺れた心情を吐露した。もう1人の補充裁判員は「裁判員制度でこういう事件が起きないことをただ願いたいなと思った」と述べた。
1日午後3時半前、東京地裁104号法廷。裁判員や補充裁判員は全員が黒い服装で席に着いた。若園敦雄裁判長が主文を告げると、証言台の前に立っていた林被告は身じろぎもせず、何度もまばたきした。
「こんなのやだ! 納得できない!」。閉廷直後、裁判員がいなくなった法廷に、殺害された鈴木芳江さんの妹の声が響いた。「こんなことってない! 絶対ダメ、ダメ!」。抱きかかえられるように法廷を後にした。
会見に出席した6人によると、裁判員たちは極刑を求める遺族感情を目の当たりにして苦悩したという。男性補充裁判員は「遺族の身になろうと努めたことに間違いない。こういう判決になったが、遺族の方には少しでも希望を持って生活をしていってほしい」と気遣った。


議論が深まるにつれ、裁判員らは「死刑」という刑罰の真の重さを徐々に実感していったという。「人を殺せば、死刑は当然と思っていたが、裁判員を経験して、そう簡単ではないと考えるようになった」と30代の女性裁判員。評議では裁判員、補充裁判員みながすべての意見を出し切ったという。「自分の考えを、自分の胸に残すことなく言い合えた、密度の濃い時間だった」

 最終的な判断で心がけたのは、「公正な目」だったという。この30代の女性は「遺族の話を聞いたときには気持ちも高ぶり、冷静に判断できなかったが、みんなの意見を聞いて、公正に判断するようにした」。30代の会社員男性は「遺族の感情だけではなく、被告が遺族あてに書いた手紙などの証拠を総合的に判断した結果。ただ、最終的には自分の意見を大事にした」と語った。

 極刑は回避したものの、判決の結びは被告に「人生の最後の瞬間」まで、生涯をかけて反省と償いを迫るメッセージとなった。「なぜ事件を起こしてしまったのか、苦しみながら考え抜いて



裁判員制度に反対する立場から、「裁判員制度になったら死刑が増える。被害者感情に寄り添いすぎて、公正な判断は期待できない。」という意見が多数あった。私も、もしかしたらそうなるかもしれないと頭の片隅では懸念しつつも、「いや、そんなことにはならないはずだ。市民がそんなに軽々に死刑判決を出すはずがない。」と信じていた。

遺族がこの判決に満足できないのもまた想像に難くない。しかし、今の怒りと報復の感情で包み込まれている家族の心情に流されすぎれば、公正な判決が下せるはずがない事も大事な点だ。裁判は、報復の場ではないからだ。

だからこそ、遺族が強く極刑を求め、その怒り・悲しみを正面から受け止めた上で、なお「公正」であろうと努めた裁判員の皆さんには、心からの敬意を送りたい。遺族もまた、この判決で良かったと思える日が来ることを願わずにはいられない。

私は、これらの裁判で得られた大事な教訓が2点あると思う。

1つには、やはり一般市民に死刑判決を出させるのは、あまりにも心的負担が大きすぎて、人権侵害になるという事だ。やはり、裁判員制度と死刑制度は相容れない制度である。裁判員制度を続けるなら、死刑制度をこそ見直すべきであると感じる。

こちらの記事でも、
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20101102k0000m040091000c.html 
裁判員制度は昨年5月に始まったが、本格的に死刑適用が議論される事件の審理は、公判準備に時間をかけたため、制度開始後1年半を経て始まった。今回は死刑を回避したが、それでも裁判員は異口同音に精神的な疲労を漏らした。今後、実際に死刑選択の場面が来れば、裁判員の心のケアが深刻な課題になる可能性がある。

と、死刑判決での裁判員の負担の大きさを懸念し、

ほぼ順調に運営されてきた裁判員制度だが、死刑選択によって生じる現象が、開始3年後の見直し論議に反映される公算は大きい。

と、運用の見直しに言及している。

緊急には日本弁護士会が主張しているように、死刑判決は全員一致を原則とするなどの改正が必要だと思うが、やはり根本的には「死刑制度」そのものを問う議論が生まれないといけないと思う。それは、次の問題とも密接に絡んでいると思うからだ。

2つ目は、犯罪被害者への公的援助の問題だ。
 

裁判員たちは極刑を求める遺族感情を目の当たりにして苦悩したという。男性補充裁判員は「遺族の身になろうと努めたことに間違いない。こういう判決になったが、遺族の方には少しでも希望を持って生活をしていってほしい」と気遣った。



と、記事にも書かれているように、被害者家族のメンタル&経済的な補償は不可欠なんだけど、欧米に比べて日本の被害者補償は相当貧弱だと指摘されている。罪の責任を犯罪者にのみ被せ、我々の社会自身がそうした犯罪者を生み出したのだという社会的責任意識が薄いからだと思う。これは、究極の応報刑である死刑制度が残っていること、社会がそれを支持していることと表裏の関係にあると、自分はずっと感じている。

なぜなら、何人もの人を殺すような凶悪な犯罪者を生んだ責任を、犯罪者本人だけでなく、我々自身の社会の責任として捉えていたらならば、その犯罪者を死刑にしても何の解決にもならないことは明白であるし、被害者救済の充実を社会の責務として捉えられるだろうと思うから。

でも、この考え、自分には当たり前だと思うんだけど、なかなか賛同が得られないことは経験済み。
難しいね。
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裁判員制度開始から一年

2010年05月21日 23:45

本日で、裁判員制度が開始されてから一年となった。

今年3月末までに、444人が既に裁判員制度で裁かれ、3594人の国民が裁判員・補充裁判員として参加した。
裁判員に行ったアンケートでは、96・7%が「よい経験と感じた」と回答している。選ばれる前に「やってみたい」と思っていた人が30・1%にすぎなかったようなので、実際に参加することで裁判への意識が変わった人がかなりの数にのぼることが分かる。また、現行制度の不備への意見も色々と出てきているようだ。

私が裁判員制度に賛成する最大の理由は、市民が裁判に主体的に関わることで、裁判を市民の手に取り戻すこと、市民的議論の対象にする事だったので、概ね思った通りの傾向で出ているようで喜ばしいと思う。

ただし、これまでは無罪を主張している事例や死刑求刑案件はまだ裁判員裁判では行われていない。
しかし、今年はそうした裁判も始まるだろうから、今年こそが裁判員制度の本当の開始年と言うべきなのかもしれない。

かねてより、裁判員制度になっても冤罪は無くなりはしないが、絶対に増えることはないと宣言していたが、恐らく無罪比率は以前よりも増えるだろう。それ以前に、そもそも負けそうなら検察もムリに起訴しないケースが増えてくるかもしれない。

一方で、死刑判決は当分は増える可能性がある。

しかし、以前にも述べたように、死刑制度と裁判員制度は、決して共存できるはずがないと自分は考えている。
なぜなら、一般人に、犯罪者とはいえ、赤の他人の生き死にを左右させる判断を強いるなんてのは、明らかに人権侵害だと思うからだ。仮に、死刑執行後に実は真犯人ではなかったと分ったり、その疑いが浮上した場合に、裁判員を務めた人の精神的苦痛は計り知れないものとなる可能性がある。自分は殺人に手を貸してしまったと傷つき、思い悩んでしまうかもしれない。

しかし、これらの問題は、裁判員制度が始まる前は我々から隠されて見えなかっただけで、以前から厳然としてあったことである。こうした問題が表に出て、死刑廃止を含めた抜本的裁判制度改革の議論に繋がっていくことを、私は願っている。そして、それこそが、山ほどの欠陥を承知の上で、裁判員制度導入に賛成した最大の理由なのだ。

裁判員制度考(1)

2009年12月11日 00:51

プロフィールを見ていただいたら、だいたい左翼的な考えをしていることは分かっていただけると思うけど、そのなかでちょっと異質なのは裁判員制度と臓器移植法改正に賛成していることでしょうか?

なぜか、左翼の皆さんは、どっちも反対の方が多い様に思います。国が進める事には必ず「悪意があるに違いない」と決めつけているように「邪推」しています。(笑

そこで、なぜ左翼の私が裁判員制度に賛成するのか?について、少し述べてみたいと思います。

実は、参審制度の一つである裁判員制度よりも、アメリカのような陪審制度の方をこそ望ましいと思っています。また、現行の裁判員制度の問題点も山ほど知っていますので改善はむろん要求してますが、しかし、それでもなお、以前の制度よりはずっとましだと思っているので導入には賛成しました。

では、なぜ以前の制度よりはマシと考えているのか?ですが、大きく以下の2つの理由があります。

1.裁判への市民参加を認める事は、より民主主義的な発展を意味する

戦前の一時期に陪審員制度が日本でも実施されていた事をご存じの方は少ないようだけど、その時期を除いて、日本では、一般の国民が裁判に参加する制度を持っていなかった。で、実は先進国で、そのような制度を持たないのは日本ぐらいであり、実は世界でも珍しいのです。裁判への市民参加は世界の常識なのです。

よく、裁判官は専門家なんだから、素人の市民になんか負担をかけなくても、それで飯を食ってる専門家に任せておけばいいじゃないか、という意見を見かけます。でも、この司法権は、立法、行政の権利と共に憲法の定める3つの権力の一つです。他の2つには、参政権などの国民の意思を反映するシステムが出来ていますが、どうして司法権だけが、国民が参加する必要がないのでしょう???変ですよね。だからこそ、他国では司法権への国民の関与が当たり前なのです。

この、司法権という三大権力機構の一つにも国民が参加するのは、民主主義の要請であると私は考えます。つまり、プロにだけ任せていては、私たちの民主主義はより発展できないと考えます。

そして、国民が司法権に参加することによって、司法の仕事への市民の理解を深める効果が期待されるし、そうした国民が増えると、裁判が国民の意識や常識に近づく効果も期待できる。つまり、この国と国民の民度を高めるため、司法制度をより国民に近い制度にしていくためにも、国民の司法権への参加=民意の反映が重要であると考えるのです。

2.現状の司法が死んでいる状況を打破しうる制度である

よく、裁判員制度になったら冤罪が増えるのではないか?と危惧する方がいる。
確かに、裁判員制度でも冤罪は完全には防げない。
しかし、断言する。裁判員制度に代わっても冤罪は絶対に増えない。必ず減るだろう。
それは、現在は起訴されれば99.9%が有罪となり、起訴=有罪だからである。世界中どこの国でも、参審制を採っている国では、そんな高い有罪率はあり得ない。裁判員制度を導入すると、99.9%の有罪率は維持できるはずがなく、無罪率が必ず増えるでしょう。つまり、冤罪が増えることは絶対にない。
こうした、これまでの専門家による最初から有罪と決められたレールを運ぶだけの裁判からの脱却が期待できるのです。

<続く。。。多分>



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